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山本富士子のプロフィール
来歴・人物
画像:山本富士子3119.JPGthumb150pxleft山本富士子邸跡、京都寺町御池下ル
大阪市西区立売堀生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。和泉市で育ち、後に泉大津市助松に引越し浜寺小学校に入学。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。
1950年、読売新聞社、中部日本新聞社、西日本新聞社の三社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)の栄冠に輝く。その類稀なる上品な美貌は審査員達の間でも話題の的で、ミス日本選定は満場一致で短時間で終了したという逸話が残っている。この第1回ミス日本コンテストは終戦から間もない当時の日本の明るい話題だった。審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存するref昭和館5階にある映像・音響室のブースにてニュース映画を選択後「ミス日本」と検索すると京都代表として出場した彼女の初々しい姿を視聴可能。ref。1951年、ミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアム (1923年)ヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会うなど、アメリカでもその美貌が話題になった。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重な訪米となった。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトが相次ぐが彼女には女優になる意思はなかった。しかし、スカウトの話はその後もずっと途切れずに続き、悩んだ末、姉・喜代子の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。ちなみに、喜代子も薬剤師の仕事に就き、富士子と同じく家庭を持った後も仕事を続けた。
ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社各社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。
1954年に「金色夜叉」(島耕二監督、根上淳共演)、1955年には「婦系図婦系図 湯島の白梅」(衣笠貞之助監督、鶴田浩二共演)と後世に語り継がれる映画のヒロインとして活躍。1956年の映画「夜の河」(吉村公三郎監督、上原謙共演)が大ヒットし、美人というだけでなく演技者としても…
